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季刊誌 駒木野 No.201

季刊誌 2024.11.30

駒木野アルコール治療の歩み

駒木野病院 理事・院長補佐・事務長 吉野 相英

秋空に揺れるススキ

 

8月18日、30年ぶりに駒木野懇談会記念大会に参加しました。通算53回目ということですから、第1回は1971年に開催されたことになります。63年に創設された全日本断酒連盟には遠く及びませんが、荒川区に三ノ輪マックが開設されたのが78年、AAが日本で始まったのが79年ですから、駒木野懇談会がいかに早い段階からアルコール依存症の回復に関わってきたかがわかります。もちろん、歴史が古ければよいというものではありません。重要なことは回復者(回復途上の人も含めて)と駒木野病院職員が一丸となって駒木野懇談会という活動を維持してきたことだと思います。継続こそが力なのです。

この機会に駒木野懇談会とアルメックが発行している文集「こぼとけ」の歴史を振り返ってみたいと思います。駒木野病院においてアルコール依存症のグループセラピーが始まったのは70年夏のことです。医師(故佐々木重雄先生)と心理士が組んで、5名ほどの入院患者さんを対象に週1回のミーティングを始めました。当時は火曜会と呼んでいたそうです。この入院グループワークに参加していた回復者の笹木利夫さん(故人)が退院後もグループワークに参加し、さらには退院者の集いも作りたいと提案され、71年8月に駒木野懇談会の前身である断酒懇談会が作られたのです。そして、病院を会場として日曜日に月例会が開かれるようになりました(筆者も若かりし頃、日直の合間を縫って何回となく参加しました)。

そして、入院グループワークが発展していくなかで、さらに文集の発行が提案され、72年12月に創刊号が刊行されました。その特筆すべき特徴はなんといっても患者さんと職員が協力し合って編集してきた点でしょう。筆者も何回となく編集に携わりました。この文集は駒木野病院の近くを流れる川の名をとって「こぼとけ」と命名され、現在まで絶えることなく隔月で発刊を続いているのも驚異です。創刊号には信田さよ子先生(原宿カウンセリングセンターの開設者にして嗜癖問題の泰山北斗の心理カウンセラー。当時は駒木野病院に勤務されていた。筆者も下谷の精神保健福祉センターなどでご一緒させていただき、薫陶を受けたことを昨日のことのように思い出します)も寄稿されています。

冒頭で継続は力なりと書きましたが、駒木野懇談会が現在まで継続することができたのは自助グループの皆さんに支えられてきたからでもあります。三鷹市断酒会の長本さん、八王子断酒会の小林さん、橋本さん、對間さん、相模原断酒会の手嶋さん、八王子AAの西垣さん、泉谷さん、竹田さんをはじめとする多くの回復者(長本さんと西垣さんを除き故人)の協力なしには駒木野懇談会が今日を迎えることはなかったと思います。これからも回復者と職員の二人三脚で駒木野懇談会が継続していくにちがいないと確信しています。

最後にわたくしごとで恐縮ですが、念願叶ってこの4月から駒木野病院に復帰しています。よろしくお願い申しあげます。

吉野相英先生に訊く
こぼとけとアルコール治療の思い出

当院のアルコール依存症患者さんの投稿文を掲載している「こぼとけ」。
昭和47年に発刊され、50年以上続く「こぼとけ」に関わる思い出と、アルコール依存症治療について院長補佐である吉野先生に編集委員がお話をお聞きしました。

《先生と「こぼとけ」の出会いはどのようなものだったのでしょうか?》

「こぼとけ」というか、私がなぜアルコールに関わるようになったかっていうと、これは自分が希望していたからじゃなくて、最初からそういう風に決められていたんだよね。
私が医者になったのが1984年で、駒木野病院に正式に就職したのが1985年、昭和だと85年ですと昭和60年ですかね

《そうですね。》

その時に私は北二病棟、今のE2病棟に配属されたんだよね。当時はアルコール治療はE2病棟とそれから開放のE3病棟のそれぞれ2病室を使って、患者さん入院していたんですよ、専門病棟じゃなくて、専門病室ってことで。ちょうどこのくらい(記念誌バックナンバーを手に)の時期ですかね。これは15周年のものですね。
これが私なのね。下っ端だった。(前理事長加藤先生と写る写真を見ながら)
当時北二病棟に配属された時にはアルコールの診療もするっていうことが決まってた。
医者と看護と心理とワーカーという当時から多職種でね、アルコールの入院治療をやっていたんですよね。
入院患者を対象にしたARPのプログラムがあって、講義をしたり、ロールプレイをしたり、AAのメッセージとかもうすでに確立していたんだよね。
毎月駒木野断酒懇談会というのが開かれていて、日曜日当直のドクターは診療で呼ばれない限りは懇談会に出席することが義務だったんですよ。今それはないんでしょ?
当直の先生たちはずっと病棟のお仕事で、ちょっともったいないなという気がね。若い先生はアルコール依存症の回復者とか見てないからね。
そういう人たちに触れるいい機会ではあるんだけどね。回復してる人を直に感じるっていうのは、本来は大きいことなんですよね。
アルコール依存症の長期回復率って20%くらいでしょ。だから大体失敗するわけで、そういう中で断致している人に出会うというのは大切なことだと思います。
当時アルコールの外来が土曜日だったんです。アルコールの患者さんは長く見ていると、飲酒している人はどんどん亡くなっていくんですよ。断酒している人だけがサバイブ
して外来に継続していくんだよね。断酒している人は外来でどんどんサバイブしていって、段々と外来に断酒している患者さんが蓄積されてくるわけですよ。そうすると、非常に外来の雰囲気が良くなってきて、やりがいも感じられるようになるんだと思うんだよね。

《長いスパンで見ているからこそ感じ取れるんですね。》

(長い)スパンで見ないともったいないなっていう気がしますよね。途中途中のスリップは避けられないにせよ。断酒が礎になった人たちっていうのはまずスリップしないから。
「あの時先生がああ言ってくれたから私は断酒できたんです」って言うんだけど、そんなこと言った覚えは全く無くて(笑)

《無かったんですか?(笑)》

無いんです。覚えていないのか分からないんだけど、そうやってこちらを持ち上げてもくれるし、そういう関係が築けていく中で(駒木野懇談会)記念大会とかで話をしたりするとか、ますます親近感が湧いていくというか、何度も見ているとなんとなく医者、患者関係とはまた別の(つながりが)ね。
外来で何の話しているかっていうと、病気の話じゃなくてもっと世間話みたいな、断酒会の話とかねそんなことをしているようになっていたからね。そういう中で「こぼとけ」の編集もしていったわけですよ。

《最初に先生が編集に携わったのは?》

北二病棟の時ですね。北二と北三にそれぞれスタッフが4名ずつ合わせて8名いて、ローテーションを組んで編集していくんですよ。だから年に1回2回、編集が回ってくるんですね。当時は患者さんも多かったし、自ら投稿してくれる患者さんも結構いたので、そんなに原稿集め苦労したっていう思い出はないかな。
ただ、日本語が変な人が多くて文章構成をすることでかなり苦労しましたね。
創刊準備号っていうのはガリ版で刷っていたんですよ。その後にいわゆるこの凸版印刷、タイプ印刷っていうのになったんだけどね。私の頃はようやくワープロが出始めた頃だったので、ワープロで編集していたような気がします。
(記念誌から)ちょうどここにこれが「こぼとけ」の最初期の頃ですかね。この間見たんだけど創刊準備号もありました。すごい歴史だよね。

《私は駒木野に入職してまだ10年ちょっとですが、刊行物がすごく多いなっていう印象がすごくあります。そのなかでも「こぼとけ」は50年以上経っています。》

昭和47年って、私がまだ中学生の時だからね。当時すでに佐々木茂雄先生というのと、笹木利夫さんという強力な人たちが揃っていて、この人たちが牽引して初めてこれが成り立ったんでしょうね、三ノ輪マックよりも古いし、AAよりも古いから、ジャパンオフィスなんかできるずっと前から活動していたわけだからね。あの当時すごく意欲的な人材が揃っていたってことだったね。それはソーシャルワーカーしかり心理士しかり。
私はまだ20代だったのだけど、下谷の精神保健福祉センターの酒害相談のスーパーバイズに呼ばれて行っていたんですよ。
そこには必ず二人いて、一人は信田さよ子さん。もう一人は遠藤優子さん。
その二人に挟まれた私がいるんですよ。これはかなわないなと思った。本当にかなわないなと思ったね。すごいカリスマ性があるんだよ。言葉の力をよく知ってるっていうか、言葉の力でぐいぐい保健師を引っ張っていくようなね、そういう存在なんですよ。
あの当時は公認心理師もないし、精神保健福祉士も資格化されていない時代ですよ。
そういう今のように立場が確立してない時代に、そういう業界に身を置いてしかも独立してやっている人たちだったんだからそれぞれね。
そんな人たちにかなうわけがないんですよね。そういう人たちに揉まれましたね。
創刊号に信田さんの記事が載ってるんで、良ければ読んでみてくださいね。
あの時にやっぱり思ったのはアルコール依存症の診療っていうのかな、これは医者である必要は全くないんだなって。もちろん急性期の治療とか、離脱の治療とかこれは医学的な知識がなきゃできないけど、いわゆるその後の関わり。それはもう医療という枠では語りきれない何かなんだろうなと思ってものすごく限界を感じましたよね。それは医療としての限界というか、自分としての限界、これはもうこれ以上無理だな、これは私には無理だなと、信田さんとか遠藤さんのようにはなれないなと思ったんだよね。

《先生が85年に駒木野病院いらっしゃって、「こぼとけ」の編集もされていてAL外来もされていて、一番思い出深いエピソードといえば何かありますでしょうか?》

一番は2009年にチューリヒってところに一年間留学して、アルコールの外来と一般精神の外来を一時的に閉じなきゃならなくなっていろんな先生にお願いして行ったんですね。
一年経って帰ってきました。また、外来をやらせてくれるってことになって、一般精神の患者さんは半分しか戻ってこなかった。それがアルコールの患者さんは全員戻ってきた。

《全員だったんですか!》

それがやっぱり一番インパクトが強いことだったかな。患者さんと築いてきた絆が一年経っても切れずにずっと続いてた。サバイブしてきた人たちはやっぱりこう帰ってきた。
その時に私は患者さんにね、寄り添えていたのかなと、そうはちょっと思ったかな。そこが一番の思い出だな。
やっぱアルコール医療のね、面白さっていうかやりがいにもつながるんだよね。
ただ通ってお薬とかそういうことではなく
そういうやっぱり人と人とのつながりの中で回復していくんだなっていうことを実感させてもらったっていうかだから、患者さんに教えてもらったってことなんだよね。 ちょっと美談すぎた(笑)。

《最近のAL依存症治療について》

なかなかだけど、最近は底つきとかそういうことは言わないんでしょ。まあ、底つく前にみたいな話だったり、あるいは節酒だったり減酒だったりとかね。そこらへんはもう私はわかんないです。
私はさっき、繰り返しになるように信田さん、遠藤さんとものすごくある意味薫陶を受けたわけですよね。その中で自分はこう職人的な医者っていうか、あるいは技能工みたいなね。
そういう医者になりたいなと思ったので、その後はアルコールと全く関係のない脳波学やてんかんなどの世界に進んでいったんです。だけど、また何故かこうなって(AL依存症の現場に戻って)きている。

《AL治療患者さんたち自身に先生が惹かれるような部分があったんでしょうか?》

どうなんだろうな。私に求められていることの一つは、アルコール診療を続けろっていうことだった。
それはやっぱり自分が求められていることにやっぱり応えたいっていうのはあるじゃないですか。
五人に一人しか断酒しないんだけど、その中で、医療を超えたところでの繋がりみたいなものができてくるわけだよね。眠剤出したとか、安定剤出したとか、こういう症状にこういう対応しましたとか、そういうものを超えた先人的な関係と言ったら少しカッコよすぎるけど、
そういうものが見出せる数少ない領域なんじゃないのかなと思うんだよね。
アルコール依存症の回復っていうのは医療という枠を超えているのかなと思うんですよ。
医者としての限界でもあるし、医療を超えたところで断酒できているんだけど、でも定期的にちゃんと医療機関に来るっていう。
医療を超えたところで皆さん断酒しているんだけど、医療の場に留まってくれていてね。
「駒木野に来ると原点を思い出す」なんてことをよく言うんだよ、患者さんはね。
外来にせよ懇談会にせよ、そういう時に自分を振り返ることができる、それが断酒につながっているんだとか、かっこいいこと言うんだよ。あんまり美談にしないでね(笑)。

インタビューを終えて
文章に収まりきらないくらいたくさんの刺激あるお話を聞くことができました。同時に50年前からチーム医療に取り組んできた当院の歴史を引き継ぐ重みを感じるとともに、その喜びも感じることができました。
季刊誌編集委員長 新井山 克徳

駒木野懇談会 第53回記念大会



残暑厳しい中、2024 年8 月18 日日曜日に駒木野懇談会第53 回記念大会「つながる・支える・分かち合う~仲間とともに~」が当院のグリーンホールにて開催されました。95 名の方が参加され、断酒表彰者は41 名でした。
駒木野懇談会は当事者のグループであり基本的には依存症者本人の自主運営となっています。

駒木野懇談会会長の開会の辞で始まり、表彰式、当事者・ご家族による依存症からの回復の歩みの体験談をお話しいただきました。

次に国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター病院 薬物依存症センター長 松本俊彦先生に「人はなぜ依存症になるのか?~回復に必要なものは何か~」というテーマでご講演いただきました。

ご講演後、松本先生より駒木野懇談会が病院と協働し当事者やご家族とともに回復への道を歩み続けるなか、このように毎年表彰者を祝う記念大会が開催されていることへ評価をいただきました。
秋空に揺れるススキ
残暑厳しい中、2024 年8 月18 日日曜日に駒木野懇談会第53 回記念大会「つながる・支える・分かち合う~仲間とともに~」が当院のグリーンホールにて開催されました。95 名の方が参加され、断酒表彰者は41 名でした。
駒木野懇談会は当事者のグループであり基本的には依存症者本人の自主運営となっています。



53 年という永きに渡り引き継がれている駒木野懇談会を、今後も当事者やご家族の皆様、依存症の回復に携わる関係機関の皆様とともに協働し歩み続けて行きたいと思います。

文責 駒木野病院 アルメック 科長 玉城 久江

編集後記

今回は期せずしてアルコール治療特集になりました。私は父もお酒好きで自身もそれに習うようにお酒と呼ばれるものは大好きですが、幸い依存症とは無縁でおりました。初めて身近に接したのは、二十年前に私がウイスキーの美味しさを教えられて以来通っていたBARのオーナーでした。自らカウンター内に立って仕事をし、シェフとしてすばらしい料理の腕をふるい、遅い時間になると常連と楽しく飲んでいた方でしたが、いつからか飲み始める時間が早くなり、仕事中も手の震えでグラスが音を立てるようになりました。幸い入院治療にまで至りませんでしたが、お酒の美味しさ楽しさだけではなく怖さも垣間見た出来事でした。お酒に限らず賭け事、買い物、ゲーム、インターネット、SNSなどの娯楽や息抜きにも依存症が潜んでいます。楽しいことを末永く楽しむためにも節度を持ってお付き合いしていきたいものです。

IT管理室 係長 山内 淳